2017年6月22日


ひっそりこの木は立っている。ひっそりとでも、立つとゆうことだけで勇敢なことだった。

6月のスコーン


スコーンを焼く。
お客さんが頼んでくれたから、持っていく。


やっぱりスコーンとやりとりしとる彼女はキラキラしとる。あ、この流れは「じゃあいつもはアカンてこと?」って聞かれそやな。



何をまだながめとるねん。あー、あかん、店やリたい。このスコーンの焼きたての香りが懐かしい。それを食べたりしよったお客さんたちが目にうかぶ。スコーンに合う皆の珈琲を淹れたい。


こうやって、一つ一つの悔しさとか喜びとかが次に繋がってゆくんやな。ありがとう。
そして何より今回注文いただいたお客さんたち、僕らを押し転がしてくれて、ありがとうございます。感謝しています。

7月もスコーンは作ります。また何味作るんかわかれば言います。

2017年6月12日

店主じゃないのに徒然日記


画用紙を真っ暗に塗りたくって、黒っぽい色を作るだけで労力がかかるんだけど、それを幾度も無くしては作って。白かったところが全部なくなって、絶望的だなと思うくらい塗りたくって、やってくる失意のようなものにまかせてそれを眺めることがあった。もうその時にはそれは自分の一部になっていて、眺めていると見えてくるものがあって、それがたまたまなのかわからないけど、木だった。毎回、木だった。


外から取ってくる木ではなくて、元からそこにあったものが、浮かんで来ただけだから、描くことに造作なかった。浮かんでくるままに描くだけだ。ばうむとゆう言葉に、そんなことを込めた。


珈琲を淹れる時、豆をさわって匂いを嗅いでいると、この豆がどんな木にどんな風になっていたか、とか、膨らんでる時は喜んでるな、とか、不本意そうな香りを出したりとか、まだそんなところに僕は立っている。この豆が喜ぶ淹れ方ができれば、美味しいはずやから。焙煎機なんか買って、焙煎を本格的に始めたりしたら生豆には触るわけやし、もう信じられへん。広がり方が。

店始めのときにあるお客さんに「珈琲はそこそこの味やったらそれでいい。」って言われて、その「そこそこ」すらわからないから、ひきつった顔でにっこりしたことを思い出した。


一杯の珈琲が気持ちを落ち着けてくれることを知っている。一杯の珈琲が今日の出来事のような苦さになることも。珈琲が、多くの人の言い訳になっていることも。きっかけになっていることも。紅茶もしかり。


僕は皆が極めているようにはできないんだろう。もうすでに欠けているものにも十分気づいているから。それでもやっぱり珈琲を淹れること、誰かのために淹れることも、止められないし、それが辛い時も楽しい時もある。

2017年6月10日

下手くそ


珈琲を淹れるのが下手になった気がする。店をやっている時より珈琲を淹れる量が少なくなったから、とゆうだけだろうか。なんかそうじゃなくて。
店では暗黙の縛りのようなものがあって、豆の浮気ができなかった。それって僕の弱さやんか。良く言えば義理堅い。悪く言えば弱い。わかってます。店閉めてからはいろんな店のいろんな豆をまた飲むようになった。
豆には性格がある。言葉に仕方が幼いけど、たとえば労働者が飲むような豆も貴族が飲むような豆。わかりにくいか。華やかさや香りのような余韻を楽しむ豆と、ただ体に馴染んでいくささやかな一呼吸を感じさせるような豆。いやいや、わかりにくいわ。言葉が変やわ。
どうやって伝えていこうか考えながら、まずこの豆を十分に感じよう、と仕事の合間にいろんな珈琲豆を飲んでいる。
そう、珈琲を淹れるの、下手くそになった。

2017年6月8日

ご無沙汰です

実は、またばうむのスコーンを、涼子が作り始めている。心を込めて、一つ一つ。店を閉めてからしばらく、こんなに真剣に作る姿は見ていなったから、その姿を見ているとちょっと胸にくるものがあって。また写真載せます。


生半可な状態でこのブログを再開したくないと思っていたけど、そんなことはどうでもよくなってしまった。「スコーン作ってますよ!!」と大声を出したくなったので、ここで。


店はないけど、スコーンはあります。欲しければメールください。焼き立てを渡したいと思っているので、その努力をします。在庫ある限りでお願いします。また焼いたらここで知らせます。

メールはbaum.coffee@gmail.comです。


店を閉めてからとゆうもの、また店を再開するための旅が始まっている。ばうむ元町一号店のこと、そこで出会ったお客さんたちのことは、ひと時も忘れたことがありません。僕らの生きる糧となっています。


そして、スコーンくださいと、メールをくださる方々、本当にありがとうございます。